頼成の歴史
頼成は7つの常会(小字)で構成されています。地名の由来ははっきりしませんが、北明(きため)、善導(ぜんどう)、坂東(ばんどう)、公文名(くもんめ)など中世的な小字が多いことから、中世の名田に発するものと推測されています。当時一帯は徳大寺家の荘園でしたが荘園の支配権が次第に荘園を管理する荘官(公文)の手に移り、先に挙げた小字名はこれら荘官の役職名や氏名に由来するものと考えられます。
戦国時代には近くの増山城をめぐって、越後の上杉氏と在地の土豪神保氏とによる戦闘が繰りかえされました。江戸時代は加賀藩領で戸出又右衛門組、東保吉右衛門組などに属していましたが、江戸末期から明治3年までは庄下組に属していました。元禄ころの戸数は81軒、嘉永年間には115軒、明治6年の地租改正時には143軒と増え、ほぼ今日と変わらない規模の村となりました。
明治9年石川県、16年富山県、22年礪波郡般若村、昭和29年3月合併により礪波町、同年4月砺波市となりました。
寺社仏閣




